現在、大相撲界(角界)で最高位の地位を誇っている「横綱」。
その地位は「いつ」「どのような経緯」で誕生したのか?
今回は、「横綱」が誕生秘話とその歴史的背景と経緯について解説していこうと思います
相撲の魅力や相撲を見る際に知って起きたい基礎知識は以下を参照

横綱とは?

「横綱」とは、相撲界で最高位の称号のことを言います。
横綱は江戸時代の相撲から歴代75人しか存在しておらず、その地位まで上り詰めるのには多くの試練があります
そこで、横綱にはどうやったらなれるのか?以下では、その条件を解説していきます
横綱になる条件
大関の地位で「2場所連続優勝」または「それに準ずる成績」
上記の条件を基準に横綱審議委員会が横綱への推薦をし、相撲協会の理事会で最終的には昇進が決定されます
それに準ずる成績とは?
あくまで目安ですが、先場所で優勝した後に「優勝争いへ食い込む活躍(13~14勝以上)」をするとそれに準ずる成績と認められるケースが多くあります
12勝での昇進例もありますが、勝ち星だけでなく、人間性や相撲の取組の内容も重要視されるのが横綱昇進へのポイントでもあります
横綱が最高位である特徴
特徴
- 地位の降格がない
- 品格と力量の両方を持ち合わせる必要がある
- 横綱土俵入りという特別な儀式
地位の降格がない
横綱以下の力士は、基本的に負け越すと地位が降格しますが横綱は地位の降格がありません
しかし、横綱は勝って当たり前の存在として君臨しています。そのため、成績不振が続くと「横綱」としてふさわしくない成績となるため、自ら「引退」の道を選ぶしかありません
そのため、勝って当たり前という重圧の中で取組を行わないといけないという辛さも存在しています
品格と力量の両方を持ち合わせる必要がある
よく、「強い人が大関になる。横綱は強さと品格を持ち合わせた人がなる地位」と言われます
先ほども述べたように、2場所連続優勝というような圧倒的な「強さ」と言動や立ち振る舞いといった「横綱」にふさわしい「品格」を兼ね備えた力士が横綱になれます
特別な儀式:横綱土俵入りとは?

横綱土俵入りには、「地の邪気を払い、五穀豊穣と平和を願う」という神事としての役割があります
土俵入りは、横綱とその両脇に「太刀持ち(たちもち)」と「露払い(つゆはらい)」の役割を担う2人の力士がいます
「太刀持ち」「露払い」に関しては以下で詳しく解説しています

また、横綱土俵入りには、2つの型が存在しており、それぞれ、
「不知火型(しらぬいがた)」と「雲竜型(うんりゅうがた)」があります
それぞれの違い
土俵入りの手の形
- 不知火型:両手を大きく広げる
- 雲竜型:右手は広げるが左手は腰に手を当てる
綱の形
- 不知火型:後ろの綱の輪が2つ
- 雲竜型:後ろの綱の輪が1つ
不知火型
不知火型土俵入りの始まりは不知火光右衛門(しらぬい こうえもん)と言われています
しかし、当時の不知火型土俵入りは今の雲竜の型で行われていました
現在の不知火型の特徴は、土俵入りの際に両手を大きく広げ、後ろの綱の輪が2つあるという点です

この手は「攻めの型」をあらわしており、「攻撃が最大の防御」という戦闘態勢をあらわしている型になります

雲竜型
不知火型土俵入りの始まりは雲竜久吉(うんりゅう ひさきち)と言われています
当時の雲竜型土俵入りは今の不知火の型で行われていました
現在の雲竜型の特徴は、土俵入りの際に右手を大きく広げ、左手は腰に当てる。そして、後ろの綱の輪が1つという点です

この手は「攻めと守りの型」をあらわしており、「右手が攻め」「左手が守り」の意味となっています
これは、「攻防兼備」という攻撃と守りの両方で隙のない戦闘態勢をあらわしています

横綱の歴史
上記では、「横綱」とは何なのかを解説してきました。以下では、横綱が誕生した歴史を解説していこうと思います
横綱の初代には2つの説がある
現在の日本相撲協会公式にも記載されている通り、歴代横綱の人数は初代を明石志賀之助として75人としています
しかし、横綱の初代を数える際には2つの説があります
- 初代:明石志賀之助(あかししがのすけ)を初代とする説
- 四代目:谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)を初代とする説
明石志賀之助は初代横綱なのか?
宝暦年間に刊行された『相撲大全』と延享年間に編纂(へんさん)された『相撲強弱理合書』ともに明石志賀之助の名前は見えず、横綱免許についても少しも書かれていません
この二書に、「横綱」「日下開山(ひのしたかいざん)」という文字を見出すことができないのは、明石志賀之助の時代には横綱というものは存在していなかったのからではないかと想像されます
このように、明石志賀之助についての明確な資料がないためにこのような横綱の起源説には曖昧な点が存在しています
なぜ、明石志賀之助を初代として数えるのか?
明石志賀之助を初代として数える理由は明治中期にあります
明治中期に元横綱力士であった陣幕久五郎(じんまくきゅうごろう)が、横綱力士の顕彰碑を深川・富岡八幡宮境内に建立することを思い立ち、その際に初代明石から十六代西ノ海嘉治郎までの十六人を掲げたことから明石を初代とする数え方は始まりました
日下開山(ひのしたかいざん)とは?:横綱との関係性
日の下開山とは、日本第一、最初の一人、天下無双といった意味で、最強をあらわす言葉のことを指します

『近世奇跡考』に、明石志賀之助が天覧相撲の際に仁王仁太夫を倒して「日の下相撲開山」と名乗ることを許されました。
しかし、『奇跡考』には、日の下開山とは単に力士の最上という意味にとどまっており、横綱と同様の意味で用いられていたとは書かれていません。そのため、日の下開山と横綱は全く異なるものであったことがわかります
しかし、時代を経るごとに相撲道の最高の名誉である横綱力士のことを日の下開山と同じ意味で用いるようになっていきました。その結果、「横綱=日の下開山=明石志賀之」という考えに変わっていき、明石志賀之助が初代という説が誕生していきました
このように、明石志賀之助よりも後の時代に正式に横綱免許を授与された谷風梶之助と日の下開山と名乗ることを許された明石志賀之助の両者による初代横綱説が存在しています
横綱の呼び名の由来
横綱免許の授与の特権は代々、肥後(現在の熊本県)の吉田司家が牛耳っていました
そして、この吉田家の家伝に横綱の呼び名の由来を見ることができます
吉田司家の家伝
嵯峨帝の弘仁年中(嵯峨(さが)天皇の在位期間(809年~823年))に、摂津住吉神社で行われた神事相撲に、近江国から来た「ハジカミ」と称する力士がいました。
行司はその力士に、社のしめ縄を腰に廻させ、もし他の力士がしめ縄に手をかけることができればその者の勝ちと定めました。しかし、誰も手をかけることはできず、「横綱」の語が起こったといいます。
大関が最高位だった!?
現在は相撲界の番付上の最高地位として知られている「横綱」ですが、横綱が番付上の階級の最高位として定められたのは明治二十三年からのことです
それまで、江戸時代の相撲界での番付上の最高位は「大関」でした。しかし、横綱という言葉はすでに江戸時代にも存在していました
ではなぜ、横綱が番付上の最高位として定められていなかったのか?
それは、横綱が階級ではなく、横綱土俵入りを行う資格そのものである横綱免許として強い力士に授与されていたからです
横綱免許とは?:その由来
横綱免許が横綱土俵入りを行う資格として定まったのは、谷風・小野川が活躍した寛政元年からのことです
それまでは、横綱に関連した儀式はあっても、内容も意味も全く異なったものでした
横綱免許の由来
谷風・小野川以前の横綱免許には「横綱伝」の免許が存在していました。しかし、これは土俵入りを行う今の免許とは異なるものでした
「横綱伝」
力士が地鎮の地堅めをした例が多く、その際に身を清める意味で結神緒(むすびのかみのお:古代日本に伝わる神聖な紐、しめ縄の起源とも言われている)をかけて、地踏を行っていました。
この、結神緒をかけて、地踏を行う儀式作法は「天長地久」の法ともいわれ、この儀式を行うことを許されることが横綱の「伝」の内容でした
そのため、横綱伝は番付上の最高位でもなく、土俵入りの際に横綱を帯びる資格でもなく、全く異なる意味を持った資格であったことがわかります
横綱伝から横綱免許へ

時代を経るごとに、上記の相撲伝から土俵入りの際に腰に横綱を身に着ける儀式へと変わっていったのはなぜなのか?
それは、「身を清める意味で腰にかけていた結神緒」と「善土・凶土を区別するために土地に張られた横綱」を混同したことによって、腰にかけていた結神緒を横綱と称し、それを褌(ふんどし)の上にかけることに重点を置かれるようになったことが理由と言われています
そして、当時の横綱土俵入りは今のように、「太刀持ち」「露払い」の役割を担う二力士を従えるというルールはなく、単に一人で土俵入りを行う場合や弟子を従えた場合もあったといいます
横綱土俵入りが現在のような様式になったのは天保以降のことです
まとめ
横綱が現在のような番付上の最高位となるまでには長い時代を経て、形が変わった結果であることはこれまでで解説してきました


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