日本の戦国武将として世界からも深く知られている織田信長(おだのぶなが)
彼が、天下統一を目指していく中で愛した「相撲」とはどのようなものだったのか?
そこで、今回は「相撲と信長の関係」について深掘っていく中で「相撲のルーツ」や「信長とはどのような人物であったのか」を探っていきたいと思います
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織田信長とは?
織田信長は尾張国で生まれ、1534年〜1582年、日本の戦国時代~安土桃山時代に活躍した戦国武将です

信長は、「常識を破る斬新さ」「実力主義の冷徹な一面」「多彩な好奇心と寛容さ」「劇的な最期」という特徴を持ち合わせた漫画に出てくる主人公のような人物です
以下では、信長の生涯を簡単に見ていきましょう
信長が世に名を轟かせた「桶狭間の戦い」
戦国時代の日本で「天下統一」の基礎を築いた「織田信長」は天下統一を目指して突き進んでいきます
桶狭間の戦い
1560年、信長が27歳の時に「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で今川義元(いまがわよしもと)に勝利します
これは、日本史上最大級のジャイアントキリング(番狂わせ)と呼ばれていて、ただの「尾張国の若造」だった信長が「天下を狙える英雄」へと一気に躍進していくキッカケになった出来事です
当時の今川義元
当時の今川義元は、駿河・遠江・三河を支配し「海道一の弓取り」と称された大勢力でした。
※「海道」とは、今川義元が統治していた東海道(駿河・遠江・三河)を指す
戦力差
- 今川軍:約25,000人
- 織田軍:約2,000〜3,000人
兵力差は約10倍で、普通に戦えば織田軍に勝ち目はない状況でした
必勝祈願
信長は、決戦直前に今の愛知県にある熱田神宮(あつたじんぐう)へ向かい、必勝を祈願しました。そして、ここで兵が集まるのを待ちつつ、敵の動向を冷静に分析していました
そのため、現在でも熱田神宮は「勝負師の聖地」として知られています。「力士は勝負の世界で生きる勝負師」であることから、現在でも大相撲名古屋場所開幕直前に熱田神宮で神聖な儀式として「横綱奉納土俵入り」が行われ、「場所の安全と、力士たちの必勝、そして国家の安泰」が祈願されます
勝敗を分けた「豪雨」と「情報」
今川義元は、桶狭間(おけはざま)という窪地で休憩を取っていました。
信長が攻撃を仕掛ける直前、視界を遮るほどの猛烈な豪雨が降ったことにより、今川軍は織田軍の接近を察知するのが遅れたと言われています
また、山を迂回して背後から襲った「奇襲」によって今川軍の隙をつき、倒したと言われています。しかし、近年の研究では、敵が窪地で油断している隙を突き、正面近くから一気に駆け下りて乱戦に持ち込んだとする説も有力です
勝利
この混乱に乗じて、信長の親衛隊が義元の本陣へ突入し、今川義元は服部小平太と毛利新介によって討ち取られました。 総大将を失った今川軍は一気に崩壊し、織田軍の歴史的勝利が決まりました

信長の甲冑(armor)の特徴
織田信長の甲冑(armor)は、彼の性格を象徴するように「極めて合理的」であり、かつ「西洋の技術をいち早く取り入れた」独創的な特徴を持っています。
南蛮胴具足(なんばんどうぐそく)
信長は、ヨーロッパ(南蛮)から伝わったプレートアーマー(板金鎧)を改造した「南蛮胴」を愛用しました。
防弾性能
当時普及し始めた「鉄砲」の弾を弾き返すため、日本の伝統的な「小札(こざね:小さな板を紐で綴ったもの)」ではなく、一枚の頑丈な鉄板で作られた西洋式の胴を導入しました。
特徴的な兜(かぶと)
信長の兜は、他の大名のような派手な角よりも、個性的で象徴的なデザインが目立ちます
建礼帽(けんれいぼう)形
貴族の帽子を模した形や、シンプルながらも洗練されたフォルムを好みました
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室町幕府を終わらせる
1568年、信長は室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺された後、その弟である足利義昭を守護するために、京都へ進軍しました
上洛
上洛とは、京都へ入ることを意味しており、当時の日本で「京都へ入ること」は天皇や将軍を守護するという正当な理由を得ることを意味していました
この結果、信長はわずか数週間で京都周辺の敵対勢力を掃討し、義昭を15代将軍に就任させ、「将軍・義昭」と、それを支える実力者「信長」という協力体制が成立していきます
信長と義昭の対立
信長は「将軍といえども、信長の許可なく命令を出してはならない」というルールを義昭に突きつけますが、義昭はこれに猛反発します。これによって両者の溝は深まっていき、信長は義昭が率いる「武田信玄、上杉謙信、浅井長政、朝倉義景」など各地の強力な大名と戦うことになります。
しかし、最大の脅威だった武田信玄が途中で病死したことをきっかけに信長は足利義昭を京都から追放
室町幕府の終焉
この追放によって、約240年続いた室町幕府は事実上滅亡しました
幕府という重しが取れた信長は、ここから一気に天下統一へと突き進んでいきます
日本の戦争の形を変えた「長篠の戦い」(ながしののたたかい)
「長篠の戦い」は、1575年に起きた、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍による決戦です。この戦いは、単なる領土争いを超えて「日本の戦争の形を根本から変えた」歴史的転換点として知られています
「最強」対「最新」の激突
当時の武田軍は、亡き武田信玄が育て上げた「武田騎馬隊」を擁し、戦国最強と恐れられていました。対する信長は、当時まだ補助的な武器とされていた「鉄砲」を組織的に運用することで、これに対抗しようとしました
このように、最新の技術であった鉄砲を使うことで信長は武田軍に勝利しました
武田信玄の甲冑(armor)の特徴
諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)
白いヤクの毛(吹返)
兜全体を覆う真っ白な長い毛は、チベット原産の「ヤク」の尾の毛です。戦場で風になびくその姿は、敵に「白い獅子」のような恐怖心を与えました
「赤」のイメージと武田軍
信玄の甲冑を語る上で欠かせないのが、後に「真田幸村」や「井伊直政」へと受け継がれる「赤備え(あかぞなえ)」のルーツとしての側面です
威圧の色彩
信玄の重臣が率いた部隊は、甲冑を赤一色で統一していました。これは戦場において、色彩による心理的圧迫を与える戦術でもありました
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安土城(あづちじょう)建設

その後、信長は自身の権威の象徴として豪華絢爛な安土城の建設へと着手します
織田信長という力が全国に示され、本格的に天下統一を目指す起点となっていきました
本能寺の変
「本能寺の変」とは、天下統一を目前にした織田信長が最も信頼していた重臣の一人、明智光秀の謀反によって京都・本能寺で自害した事件です
本能寺襲撃
夜明け前、明智軍が寺を完全に包囲しました。騒ぎで目を覚ました信長は、当初「下々の者の喧嘩か」と思いましたが、鉄砲の音で謀反を察知。相手が光秀だと知ると「是非に及ばず(仕方がない)」と言い残し、奥へ入ったと伝えられています
信長の最期
槍を手に自ら戦った信長でしたが、圧倒的な兵数差の前に負傷。寺に火を放ち、燃え盛る炎の中で自害しました。遺体はついに見つかりませんでした
このように、破竹の勢いで天下人へと近づき、天下統一の目前で家臣の裏切りによって命を落とした織田信長。この男が愛した「相撲」とはどのようなものだったのか?以下で詳しく解説していきます
信長が愛した相撲の特徴
信長は「相撲」を単なる趣味や庶民の娯楽としてだけでなく、様々な目的をもって相撲を愛していました
信長による上覧相撲が何度も行われるなど、信長にとって相撲は重要な位置づけであったことがわかります

出典:Hatena、個別「織田信長の上覧相撲」の写真、画像 、https://f.hatena.ne.jp/msystem/20150906153330
信長の時代の相撲の特徴
- 究極の実力主義
- ルールの整備と「土俵」の原型
- エンターテインメントと都市戦略
- 軍事トレーニングとしての相撲
相撲は出世の大チャンス!?
当時の日本では、農民や武士といった身分が偉さを決める上では重要視されていました。しかし、信長は身分に関係なく「実力があるやつが一番偉い」という思想を持っていました。そのため、「相撲」は信長に実力を見せつけることができるとても良い機会でした
身分逆転チャンス
農民や町人であっても、信長の前で強さを見せれば、その場で「今日からお前は武士だ」と召し抱えられ、苗字や領地、家を与えられることがありました。
力士から家臣に
実際に「櫟原(いちはら)」や「上田」といった強豪力士が相撲を通して、信長の家臣として歴史に名を残しています。信長にとって土俵は、最強の兵士を見つけるための「公開オーディション」のような役割も持っていました
信長が信頼した「相撲家臣」
- 櫟原 仲左衛門(いちはら ちゅうざえもん)
- 上田 序助(うえだ じょすけ)
- 鯰江 又一郎(なまずえ またいちろう)
信長は、このように実力があって、信頼のできる家臣には「給料」「苗字」「屋敷」を惜しみなく与えていました
ルールの整備と「土俵」の原型
「人垣(ひとがき)」から「境界線」へ
信長の時代以前の相撲は、周囲を囲む観客がそのまま境界線となる「人垣」で行われていました。しかし、信長はこの曖昧な状態を嫌いました。
信長は、大勢の観客が公平に、かつ安全に観戦できるよう、地面に円を描いたり、仕切りを設けたりして物理的な境界を明確にするよう指示したとされています。
ルールの整備
行司(審判)の権威
それまでは周囲の野次や勢いで勝敗が決まることもありましたが、信長は信頼できる部下を行司として配置し、土俵という限定された空間内での厳格な判定を求めました。
土俵の外=負け
「境界線から出たら負け」というルールが明確になったことで、力士たちは狭い円の中での駆け引きや、押し出しなどの技術を磨くようになりました。

エンターテインメントと都市戦略
安土城下で開催された上覧相撲には、1,500人もの力士が集まったと言われています
経済効果
1,000人規模のイベントを城下町で開催することで、商人を呼び込み、街を活性化させました。これは信長が進めていた「楽市楽座」(自由な売買を許可した)とセットの経済政策でもありました
幾何学的な様式美
安土城という絢爛豪華な巨大建築を背景に、整然と行われる大規模な相撲大会は、信長の圧倒的な権威を周囲に見せつける最高のパフォーマンスでもありました
軍事トレーニングとしての相撲
近接戦闘の訓練
当時の戦場は、最終的には組み合いの乱闘になることが多かったため、相撲は最高の格闘技術訓練でした。このように、当時の相撲は戦国時代という戦いの時代を生きる上で欠かせない存在となっていました
土木作業の担い手
屈強な力士たちは、戦時以外では安土城の巨大な石垣を運ぶなどの重労働を担う部隊でもありました。力の強い力士は、このような土木作業の要因としても重宝されていました
まとめ:信長の時代の相撲
このように信長は、相撲に「勝負の明確さ(合理性)」と「勝者が報われる仕組み(実力主義)」を組み込みました。この精神は、江戸時代を経て現代の大相撲へと受け継がれています。
信長が愛した相撲が現代にも受け継がれており、人々を魅了しています


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