日本の国技である「相撲」。
相撲が国技と言われる理由の一つに「日本の歴史や文化が象徴されている」という点があります
そこで、今回は相撲がどのような歴史を経て現代の形へと変化していったのか?歴史を振り返っていきたいと思います
✅今回の記事で知れること
- 日本神話から見る相撲の根源
- 古代日本で行われていた相撲のかたち
- 武家相撲への変遷と歴史的背景
相撲の魅力や相撲を見る際に知って起きたい基礎知識は以下を参照

相撲の語源と神話
相撲という言葉の語源
「すもう」の語源は「あらそう」「あらがう」といった意味のハ行四段活用動詞「すまふ」の連用形「すまひ」が名詞化したものです
これに連動する形で相撲を取る人、「相撲人」は「すまひびと」と呼ばれていました
つまり、相撲の言葉の本来の意味は「あらそう」という意味を持っており、その後から派生した形で現代まで伝わり、「相撲」として知られています
相撲取(すもうとり)、力士の語源
上記で説明したように、古代では相撲を取る人のことを「相撲人(すまひ(い)びと)」と呼んでいました。
また単に、「相撲(すまひ(い))」と呼ばれることもありました。
そのため、現代でも力士のことを「お相撲さん」と呼ぶのはこの「相撲(すまひ(い))」にルーツがあると言われています
明確な文献がないため、いつの時代からというのは特定しがたいですが、その後時代を経るごとに「相撲取(すもうとり)」という語が誕生していきました。そして近世に入って、この「相撲取(すもうとり)」の語が急速に普及していきました
そして、「力士」の語源は仏を守護する「金剛力士」などのように、元々は大力をもつ血気盛んな男を意味した語であり、とくに相撲の競技者を「力士」と呼ぶようになったのは近世に入ってからのことです
古事記にある「力くらべ」が相撲の起源説

現代の相撲につながる直接的な関係があるのかは諸説ありますが、『古事記』のなかに「国譲り」の神話があります
高天原(たかまがはら)の主宰神(しゅさいしん)であるアマテラスは、自身の孫であるニ二ギに葦原中津国(あしはらのなかつくに)を支配させるために、タケミカヅチを使節として派遣をしました
そして、その地を元々支配していたオオクニヌシに帰服(服従するように)を勧告するが、オオクニヌシは従う意向を示したものの、その子であるタケミナカタは納得をせず、タケミカヅチに「力くらべ」を挑みました
これが『古事記』上の「力くらべ」です
タケミナカタ vs タケミカヅチ
の決闘です。
出雲国伊那佐浜(いずもいなさのはま)(現:島根県簸川郡大社町(ひかわぐんたいしゃ)において立ち合った二神は、互いの手を取り合って力くらべをするが、タケミカヅチはいともたやすくタケミナカタを投げ飛ばしました
敗れたタケミナカタはその場から逃走し、科野国須羽の地(しなのすわ)(現:長野県諏訪市)でタケミカヅチに追われ、ついに降伏。
タケミナカタは服従と隠遁(交わりを絶って俗世間からのがれて暮らすこと)を約して諏訪社にまつられました
日本書紀に記されている相撲

相撲の神様として祀られている野見宿禰(のみすくね)が登場する日本書紀
これが「相撲」の起源であるという説があります
垂仁天皇七年七月七日、天皇によって召された宿禰(すくね)はクェハヤ(当麻蹴速:たいまのけはや)と対戦し、勝利した野見宿禰は日本相撲の始祖(神)として祀られることとなりました
そのため、現代でも両国の野見宿禰神社(のみすくねじんじゃ)には相撲の始祖(神)として野見宿禰(のみすくね)が祀られています
相撲と七夕の関係
相撲と七夕にはとても深い関係があるんです
皆さん、七夕と言えば「オリヒメとヒコボシが一年に一度だけ会える日」としての中国起源の伝説の方を思い浮かべると思います
そして、「七夕」と言えば、言うまでもなく七月七日ですよね
これとは別に、日本の平安時代には朝廷の年中行事として七月七日に相撲節(すまひのせち)が行われていました
相撲は元々、五穀豊穣を占う神事で、七夕に神事の一環として力士が取組を行っていたことから七夕と相撲には昔から深い関係があったんですね
相撲節が現代相撲の様式の起源?
相撲節(すまひのせち)・相撲節会(すまひのせちえ)とは?

相撲節とは
八世紀にはじまり、十二世紀に断絶するまでのおよそ400年間、奈良・平安時代を中心に朝廷の年中行事として行われていた、諸国から有力な相撲人を宮中に集め、天候の温順と五穀の豊穣を神仏に祈るための一つの祭、儀式のことです
そして、この400年の間に熟した相撲節で生まれた様々な様式が、後世の相撲に決定的な影響を及ぼしています
そのため、上記で記した『日本書紀』が相撲の始まりそのものの起源だとすると、『相撲節』は現代にまで続く相撲の様式や所作の基本に関する起源と言えます
日本書紀と相撲節の相撲の違いは?
観覧用かそうでないか
- 日本書紀で記されている相撲は相手を殺しても差し支えのない命がけの闘技
- 相撲節での相撲は作法などが発展していき、観覧用の相撲を見るという風習の中での相撲であった
以下では「相撲節」の時代に確立され、現代にまで続く相撲用語とその起源を解説していきます
千秋楽の語源
現在では、相撲で本場所15日間の最後の日のことを千秋楽と言います
この千秋楽という言葉は相撲節の中の舞楽が関係しています
相撲節は様々な舞楽(ぶがく)によって彩られていました
※舞楽とは、日本伝統の華やかな舞台芸術のこと
そして、この舞楽は左舞と右舞に分類されており、相撲節における左右を決める指標となっていました
例
- 左方の相撲人が勝つと左舞である「抜頭(ばとう)」
- 右方の相撲人が勝つと右舞である「納蘇利(なそり)」
が演奏されるなど相撲節の儀式の中に様々な舞楽が演奏されていました
そして、節の最後に演奏される曲を「千秋楽」「万歳楽(まんざいらく)」と言いました
そのため、現代大相撲で取組の最終日のことを「千秋楽」と呼ぶようになりました
東西制の起源
相撲節当日の儀式は「召合(めしあわせ)」と呼ばれ、豪華な宮殿の庭の白砂の上で行われていました
そして、千秋楽の語源ともなった舞楽が勝負が一番終わるごとに演奏されていました。
さらに、勝負ごとに「かずさし」という役割の人が勝方側の地上に矢を立て、勝負の数を明らかにしていました。全取組終了後にはこの矢の合計本数で左右のどっちが勝利したのかを決めており、これが現代まで続く「東西制」の起源となっています
弓取式(ゆみとりしき)の起源
現代では、すべての取組が終わった後に行われる弓取り式ですが、これも相撲節に起源があると言われています
相撲節では、土俵も行司もなかったのですが、「立合(たちあわせ)」という役職の人が相撲人を立ち会わせる役割を担っていました

そして、勝った方の「立合(たちあわせ)」は弓を背負って舞う「立合舞(たちあいまい)」を行っていました。これが、現在の弓取式の起源になっています

花道の語源
力士が支度部屋から土俵へ歩いてくる道のことを花道と言います。これも相撲節に起源があると言われています
「相撲節」では、
- 左近衛府側(今の東方)の力士は葵(あおい)の花の造花
- 右近衛府側(今の西方)の力士はユウガオの花の造花
を髪に差して相撲を行っていました

そして、勝方の力士は造花を次の取組の力士に引き継ぎ、負方の力士は新しい花を付けていました
このように、勝方の相撲人が造花を次に登場する相撲人に与えるなど、「花を付けた力士が通る道」だったことから「花道」と呼ばれるようになりました
力水の語源
現在でも行われている「力水(ちからみず)」。これも相撲節に起源があると言われています
前の取組で勝った相撲人から水を受け取り、勝ち運や力を授かるという意味が込められていました
なので、現在でも「前の取組で勝った力士」が「次に取組を行う力士」に水を与えています
また、「力水」には身を清めるという意味もあって、これは日本の神社でも見られる、お参りの際のお清めと同じ意味を持っています
相撲節での物言い
現代の相撲で判定に疑問を抱いたときにする「物言い」ですが、「相撲節」でも「物言い」が行われていました
相撲節での勝敗の決定は、左右に配置されていた近衛の次将が行っていました
しかし、同体や微妙な勝負の時は、次将がそれぞれの意見を「出居(いでい)」(判定を専門に扱う役割)に申し立てることになっていました。これを今でいう「物言い」と言って、当時は「論(ろん)」と呼ばれていました
これでも判定が決まらないときは、公卿(くぎょう)に意見を求め、最終的には天皇の判定を仰いでいました。この天皇による最終決定を「天判(てんぱん)」と呼び、誰も言い返すことはできないものになっていました
相撲節に残っていた古代相撲による神占信仰
相撲節についてさらに注目すべき特徴は、古代の相撲による神占信仰が依然としてそのころまで脈をひいていたということです
例
- 左方が勝てば、「田のもの、海の幸」が豊作、大漁
- 右方が勝てば、「畑のもの、山の幸」が満作、多猟
であるとされました
例
- 左方が勝てば、皇位は安泰であり、ゆるぎないと信ぜられていた
これは、中国思想の影ある左方を天皇方とする考え方がもとになっていました。
そのため、右方の相撲人の中には敗れても皇位が安泰であるために悔いはしないという風習もありました
このように、相撲節では神前に相撲を奉納し、「天長地久・風雨順時・五穀豊穣」を神明に祈るなど、神占信仰の形態が現れていました
相撲節の廃絶
現代の大相撲の出発点である、平安朝廷の年中行事として400年間も続いた相撲節(すまひのせち)は、十二世紀には次第に途絶えがちになり、承安4年(1174年)を最後として廃絶してしまいます
それまでに、干水害や病の流行、彗星の出現などによって相撲節が中止となってきた事例はありますが、なぜ承安4年(1174年)が最後の開催となってしまったのか?
それは、政治背景にありました。
この年の前後で起きた「平治の乱」や「源平合戦(治承・寿永の乱:じしょうじゅえいのらん)」による世情の不安定化や朝廷の経済的困窮によって相撲節を開催できなくなっていき、廃絶へと至りました
また、日本史を振り返るとこの時期から平清盛が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となることで、政治の主役が天皇から武士へと変わっていきました
それに伴って、相撲もだんだんと変化していくようになります
以下では、武士の時代が続いた中での「相撲の移り変わり」についてみていこうと思います
鎌倉幕府による上覧相撲~武家相撲への変遷~

武家相撲~鎌倉時代~
1185年の鎌倉幕府成立によって、これまで天皇中心で行われてきていた日本の政治が武士中心の政治へと変化していきました。
中世日本(平安末期~戦国末期まで)の相撲は、「武家相撲の時代」すなわち、相撲の主役が相撲人から武士へと移り変わった相撲でした
武家相撲の特徴
単なる競技ではない
武士にとって相撲は、単なる競技ではなく戦場で実際に役に立つ重要な訓練の位置づけにありました
そのため、
- 現在の相撲や相撲節よりも突きや蹴りの容認
- 尻や膝が地面についたとしても相手を倒して抑え込むまでが勝負
というように、現代の相撲や相撲節よりも格闘技色の強い相撲となっていました
源頼朝の上覧相撲
源頼朝は相撲を好み、鶴岡八幡宮で競馬(くらべうま)・流鏑馬(やぶさめ)とセットで相撲が行われており、当時も非常に人気があったということが『吾妻鏡』や『太平記』などに書かれています
当時の相撲は一般にも人気だったことが、鎌倉市内での「辻相撲」の禁令によってわかります
武家相撲の衰退と技芸としての相撲へ
北条時頼(ほうじょうときより)の「近年、相撲などの武芸が廃れ云々」という言葉からもわかる通り、鎌倉幕府中期には武家相撲が衰退していきました
それに伴って、「相撲」は武家相撲から相撲節の様式に少し戻るような形で、技芸としての相撲に変化していきます
河津掛け(かわづがけ)の由来となった力士

この時代に河津(かわづ)と俣野(またの)という両者とも強い力士が存在した
河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけやす)は、相撲の経験はないが、剛力で俣野を鮮やかに足技で投げ飛ばしたことで、河津掛けという技が生まれていきました
しかし、河津と俣野の相撲には決定的な違いがありました。
それは、「河津の相撲は武家相撲の格闘そのものを象徴した相撲」であるのに対して「俣野の相撲は相撲節を舞台として形成された様式のある相撲」であったということです
技芸としての相撲
武家相撲として武士たちが主君への上覧に供するための相撲が技芸としての相撲に変わるには、武士たちに相撲節になぞらえる「儀式・作法・服装」を教えないといけませんでした
そのため、武士が取る相撲の他に、御家人武士たちによって推薦された相撲専門の相撲人が取る相撲も多くみられました
これにより、「武士による相撲」の重要性は低くなり、専門的な相撲人による相撲とは別に分化していきました
このように中世における「相撲」は武士中心で実践用の武家相撲から相撲節の形態に戻るような形で変遷していきました。そして、「武道」である以上に「芸能」であり、武将たちの娯楽の1つとして確立した形態をもってさらに進化していきました
室町時代の相撲
勧進相撲の発生
勧進相撲(かんじんずもう)の本来の目的は寺社・橋梁などの建立・修復のための資金調達を目的とした人々から募金として資金を頂く活動です
それは、十五世紀前半の法安寺造営のために行われていて、室町時代にはすでに行われていたことがわかります
そして、これまで述べたように「相撲」が「芸能」としての地位を確立するようになってからは建設資金の調達のためではなく、「見て楽しむ」対象として、来客者から金銭を受領していた営利興行としての形態の「勧進相撲」が行われるようになりました
室町時代を収めていた足利将軍の命令によって開催された「糺河原(ただすがわら)勧進猿楽」などの勧進相撲が開催されるなど、勧進相撲が栄えた時代でした
「勧進相撲」=「勧進興行」という認識ですね
そのため、武士が相撲を取るのではなく、職人としての相撲人(すまいびと)が相撲を取り、諸国を巡業していました
江戸時代の勧進相撲との違い
この時代の勧進相撲は江戸時代の勧進相撲のように完成された職業力士集団は存在しておらず、ただ諸国に散在し、祭礼・式典その他、時に応じて相撲を取るために集まってきた人々と考えられる
これは、「常陸山谷右衛門『相撲大観』」の中にある
「ー戦国の余風を受けて、物の興になせる武士の遊戯の一と見て可なるべし、すなわち純然たる渡世的の相撲は、勧進相撲はじまりて以来のことと断ずるを至当とすべし。」
の文章からも現代の相撲興行の起点となる勧進相撲は江戸時代に発生したということがわかります
この時代の土俵
室町時代の相撲には土俵という勝敗を決定付ける明確な境界線は考案されていませんでした。
そのかわり、「人方屋(ひとかたや)」と呼ばれる、見物人の取り巻いている範囲内(直径8~9mの人垣)を相撲を取る場として使用していました

その後、土俵という明確な境界線が考案されたのは織田信長による指令で、この時代の相撲よりも少し後の時代になります
信長(Nobunaga Oda)は大の相撲好きとして知られていました。
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マス席の語源
芸能の勧進興行につきものと言えば「桟敷(さじき)」です
桟敷とは一段高く設けてある見物席のことで、足利将軍をはじめとする大名たちは「桟敷を何間買う」という形で高額の金銭を出資し、勧進に参加していました
この「桟敷席(マス席)」という客席構造が現代の大相撲にまで残る「マス席」を生み出しました
相撲集団の発生
相撲取(すもうとり)の由来と発生

相撲が武士中心から再び相撲人に移り変わっていく中、南北朝時代から室町時代に至っても相撲を単なる娯楽とは認識せずに、武術としての相撲として行う気風は続いていました
室町時代初期には、特定の主人を持たず浪々する武士が諸国を巡って相撲を挑み、その力量を誇って歩く風習もありました。
この風習によって、相撲をやや職業的に行う武士も現れてきていました
相撲集団の発生
上記の風潮が続いていくにつれて、足利時代にはすでに半職業的相撲集団が生まれて、力自慢の相撲人が10人から数人程度のグループを作って諸国を巡り、勧進のためと称して武士たちや庶民を集め、相撲を催すようになっていきました。
相撲取(すもうとり)の誕生
一行はシコ名(四股名)を名乗り、相撲を専業とするいわゆる「相撲取」という職業力士が誕生しました
文献からわかる実例
『大友興廃記』によると、将軍義輝の時代に、都から雷(いかづち)・稲妻・大嵐・辻風一行が来て、豊後(現在の大分県)府内で勧進相撲を興行し、負けることがなかったという文がある。
これらの専門力士は京・大阪で興行を行った後、地方国々へ巡業したものと思われ、この文献からもすでに雷や稲妻という四股名の存在と専門力士の存在があったということが確認できます
そのため、これが今のところ最も古い文献で、勧進相撲の発生期であると考えられています
前編まとめ
今回は、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神話から平安時代に朝廷の年中行事として行われていた相撲節(すまひのせち)、鎌倉時代の「武家相撲」、室町時代の「武家相撲の変化」を解説していきました
後編では、さらに相撲の形態が変化していく江戸時代の相撲から「明治維新・文明開化」などの欧米文化を乗り越えた明治時代、大正時代、そして昭和、現在までの相撲の激動や人気の起伏、歴史背景・文化を徹底解説しています!
後編は以下の記事で解説しています



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