歴史とは違う視点で相撲の魅力や基礎知識をまとめ、相撲とは?を解説したページはこちら

江戸時代の相撲のはじまり
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの一戦を機に天下の政権を完全にわが手に収め、政治的中心となった徳川家康。同年に征夷大将軍に補せられ、幕府を開き、徳川三百年の基礎を固めました
徳川幕府の基礎が固まっていくにつれて、江戸は日増しに繁栄していきました。丘を削り、入り江や沼を埋め、武家屋敷や町家の数も増えていきました。
その中で、失業した浪人者を交えた職業相撲が各地に多く出るようになり、京都・大阪をはじめ諸方で勧進相撲が行われるようになっていきました。
本来の勧進相撲から営利興行へ

勧進相撲の本来の意味
『平家物語』や『源平盛衰記』などには、「文覚勧進帳」、「弁慶勧進帳」の語があって当時、神社・寺院・橋等の建立、修復などのために人に勧めて金品を募集するのを勧進と言っていました。
そのため、臨時的に遊覧の技を演じ、観衆の見物料や喜捨(募金のようなもの)を徴する(頂戴する)ことに「勧進」という二字を冠しました。
前編でも述べましたが、足利時代には、「勧進猿楽」や「勧進田楽」などが盛んに行われ、各神社の祭礼の時に相撲は催事として行われていました。
このことなどを踏まえても、相撲は神社とは深い縁故がありました。
このことからも、勧進相撲の本来の意味は、「神社や寺の新築、改築」または「道路や橋等の新設、修理」を目的として、相撲興行を行ってその利益金を工事費として使うことであるという事が分かります
営利目的の相撲興行へ
上記に述べた本来の意味での勧進相撲ですが、時代が進むごとに本来の意味は失われていきました。
その結果、本来の勧進の意味とはかけ離れた、自分たちの生活のための民間の営利興行までもが勧進相撲と呼ばれるようになっていきました。
そのため、江戸時代の勧進相撲は本来の勧進相撲の意味を含んでおらず、全く別物であるということです
野相撲が現代にまで続く勧進相撲のはじまり?

幕府は江戸に移っても皇居は京都にあったことから、勧進相撲の動きも京都が最も古く、足利末期の文禄の頃から行われていました
その一方で、野相撲も盛んに行われていました
野相撲とは?
野相撲とは、京師(都)で盛んに行われていたもので、野原に相撲場を作って、集ってくる強剛な人々の力を試すために行われていた相撲のことです。
野相撲もまた、各地に相撲集団をつくり、勧進相撲と名乗って相撲を取り、神社仏閣に関係なく興行を行っていました。
そして、このような興行は次第に見物から見物料を取るようになっていき、後の江戸時代の勧進相撲と形上で同格のものと変化してしまいました。
このことから、勧進相撲が野相撲から発達してきたものであることがわかります。
野相撲から垣間見える現代相撲の原点
野相撲の相撲場の形式は、武具を飾って警固(守ること)することによって示していました。
徳川時代に入り、奥州力士が江戸で興行した時にも、場内には武具が並べられ、関取は刀を持って溜まりに入る風習があったことが当時の絵画に描かれています
このほかにも、櫓(やぐら)・鼠木戸(ねずみきど)・ふれ太鼓なども野相撲による影響でした


すべての芸能が京・大阪で熱して江戸へ下ったように、勧進相撲もまた京都と大阪が中心地で、元禄時代(江戸中期)にはいろいろと発達していきました
江戸初期の相撲
勧進方と寄方とは?
江戸初期の相撲は今日の相撲形態のように、東西共に日本相撲協会という同じ団体のもとに組織された形式ではありませんでした
当時は、今の東方にあたるものを「勧進方」、西方にあたるものを「寄方」と言いました。
これらは共に別々の団体で、この二つの団体が東西に分かれて相撲を取っていました。
さらに、相撲興行の大元となる集団が勧進方(東方)となり、それに対抗するもう一つの集団を寄方(西方)と言いました
例
京都・大阪の力士が江戸で興行を行ったとき、江戸が勧進方で京都・大阪が寄方と言いました
そして、勧進方が負けると弓を奪われるというリスクがありました
三都の勧進相撲起源
初めて勧進相撲が興行されたのはいつ?
江戸幕府開府以後において、勧進相撲が初めて興行されたのはいつなのか?
その起源は、相撲道最古の著述である『古今相撲大全』には
- 江戸で寛永元年(1624年)に明石志賀之助が興行を行ったのが最初
- 京都で正保二年(1645年)六月に山城国愛宕郡光福寺鎮守八幡宮再建のためが最初
- 大阪で元禄十五年(1702年)の堀江新地興行が最初
とある
江戸勧進相撲の形成
江戸幕府の政権が固まると共に、失業武士たちを交えた職業力士集団が各地に発生し、京都・大阪・江戸を中心に集結し次第に組織化され、相撲会所と呼ばれる本部が設置されました。
神社・仏閣・橋などの建設資金を募るという趣旨で勧進相撲を興行し、それが定期的に行われるようになって番付もできるようになっていきました
これまでの勧進相撲との違いは?
これまでに述べてきた勧進相撲は、名前を勧進相撲と称しているだけで、実際にはその地方の青年たちが相撲を取っていた。これは、いわゆる素人相撲であった。
しかし、ここで説明する江戸勧進相撲とは職業力士が興行を行い、芸能としての娯楽のための相撲のことである
相撲が勢いづいたの時代へ
立合と取口の変遷
立合の型
勧進相撲の初期には、両力士は土俵の上に立ち上がったままで行司の合図を待って取り組んでいました。そして、この時に両力士は上段・中段・下段・奇相・陰陽・居眼相の順で仕切を行い、行司の団扇(うちわ)を引くと同時に立ち合っていた
しかし、堺の八角という力士が「仕切」を提唱し、「待ッタ」を始めたことによって、仕切りの型が上記で記した型から蹲踞をしてから手を付く型へと変化していきました
職人力士の確立
これに伴って、相撲の立合の技術が必要になり、この技術が素人力士と職人力士の差を明確にしていきました。この流れによって、勧進相撲は素人には立ち入れない職人力士が活躍する場になり、今でいうプロのような存在が出来上がっていきました
勧進相撲を行う人々が職業力士だけに限定されたことによって、勧進相撲は元方(1つの集団)だけでは興行を行うことが不可能になっていきました。これによって、寄方(もう1つの集団)とセットで行う興行が玄人力士の面白い相撲を生み出すことを含めてとても人気になっていきました。
晴天十日興行
相撲興行の日数は元来、晴天八日(晴れた日に八日間行う)とされていましたが、江戸の勧進相撲においては、安永七年三月深川八幡社興行から晴天十日間(晴れた日に十日間行う)となりました
この時期(安永から天明にかけて)の相撲も発展していくにつれて、本来の勧進相撲の意義は失われていき、勧進の語だけを冠したものとなっていきました
正式に十日間興行となった時期と開催場所
上記で記した時期は一時的に晴天十日間の興行となっただけでした。
いつから晴天十日間の興行が定着していった?
天明元年十一月の回向院(えこういん)での興行から定着していきました。
勧進相撲開催場所は?
『年中行事東都遊覧』から、相撲は年に二回行われていたということが分かります
角力晴天十日場所(本場所)
芝神明・御蔵前八幡・両国回向院・茅場町薬師
これらの内、どこか特定の場所が本場所ということではなく、この4か所のどこでやってもそれが本場所ということで行われていました。
花相撲場所(巡業)
深川八幡・西大久保八幡・神田明神
本場所、花相撲ともに寺社の境内で興行を行うことは、勧進相撲の本来の意味が関係していると言えます。
回向院(えこういん)が定場所として定着

上記で述べた天明元年の回向院での興行は回向院での興行が初めて行われた年であり、興行が回向院を定場所として定まったのは、天保四年のことです
なぜ回向院だったのか?
両国橋は万治二年(1659年)に初めてかかり、天和元年(1681年)に替工事が行われるが、途中で止まってしまい、元禄九年(1696年)まで仮橋であった。また、当時の両国はあまり賑わっていませんでした

それが宝永年間に大川端に道路を設け、火除地(ひよけち)を作るのが良いという案が出た。
その結果、広小路というものができ、火事の時に火を防ぐための明地(あきち)が誕生しました
しかし、この火除地という地は普段はただの広く空いているスペースなので、広小路でいろいろな興行物が行われるようになっていきました
そのため、両国広小路は人が多く集まり、繁栄していき、興行物の絶えない場所となり、両国に位置していた回向院は相撲興行の定場所として定着していきました
相撲大盛況の時代へ

寛政三年(1791年)に徳川幕府第十一代将軍徳川家斉(いえなり)の上覧相撲が行われ、相撲がさらに世の注目を集めて、最高潮に達した黄金時代を迎えていきます
制度の確立
この頃の相撲は制度も確立し、毎場所出場力士の安定しなかった時代を脱して、春冬二場所における力士の顔ぶれも、幕内幕下を通じてほぼ一定となっていきました

力士の質の向上
さらに、力士の質も著しく向上していき、
谷風梶之助(かじのすけ)・小野川喜三郎(きさぶろう)・雷電為右衛門(らいでんためえもん)らを中心とした名力士を輩出し、江戸相撲は空前のブームを迎えていました
横綱の誕生

上記で述べた年代はまさに谷風と小野川の最強で最大のライバルが存在した時代であり、江戸の相撲が大いに盛り上がった時代でした
そして、この時代に谷風梶之助・小野川喜三郎の二大好敵手に対して初めて横綱免許が設けられました
横綱免許とは?
横綱は、現在では大相撲力士の最高位を意味しますが、その昔は地位ではなく横綱を腰にしめて土俵入りを行う資格そのものを指していました
そのため、谷風と小野川は番付で見ると「東西の大関」として記されています
横綱の人数は諸説あり?
三都の相撲運営組織のうち、東京の相撲協会が横綱を「最高力士」として、つまり最高の地位として明確化したのは明治四十二年からのことです
そして現在、横綱は歴代75人存在します。
しかし、第4代横綱・谷風梶之助以降の力士は実績・戦績などが詳細に記録されていますが、それ以前の3人、
- 初代横綱・明石志賀之助(あかししがのすけ)
- 二代目横綱・綾川五郎次(あやかわごろうじ)
- 三代目横綱・丸山権太左衛門(まるやまごんたざえもん)
に関しては詳細な記録が残っていません。そのため、歴代横綱の正式な人数には諸説があります。しかし、日本相撲協会公式では明石志賀之助を含め、歴代横綱は75人としています
横綱免許を授与できる唯一の家系
横綱を決定する権限は第二次世界大戦前まで吉田司家が牛耳っており、大戦以降に横綱の決定権が相撲協会へと渡っていきました
最強の力士、雷電為右衛門の時代へ

谷風と小野川の二大力士が引退し、谷風・小野川という一つの時代を終えた相撲界は、
雷電為右衛門(らいでんためえもん)という最強の力士の登場によって、彼の独擅場となっていきました
初土俵
十八歳の時に谷風の内弟子となり、数年間は場所には出ずに修行を行った雷電。
寛政二年(1790年)の11月場所に関脇として付出で初の土俵を踏みました
それから、文化八年二月に引退するまで、大関を16年間つとめました
最強ぶり
大関として16年間相撲を取ったにも関わらず、負けを喫したのはわずか1,2回で、他は16年間勝ちっぱなしだったということが『相撲起顕』に所載の勝負付に記されています
また、張り手・鉄砲・閂(かんぬき)の三つが禁じ手とされていたことを踏まえても雷電がほかの力士に比べてどれだけ圧倒的な力を保持していたのかがわかります
あわせて読みたい

雷電はなぜ横綱にならなかったのか?
このように、大関として非常に優れた成績を残していた雷電ですが、なぜ横綱にはならなかったのでしょうか?
その理由はいまだに一つの疑問として掲げられていますが、以下ではいくつかの説を解説していきます
雷電が大関の地位で満足していたという説
雷電は地位や名声を追い求めるのに貪欲ではなく、「横綱」という地位を自ら求めず、大関で満足していたという説があります
土俵上で殺したために横綱になれなかった説
寛政四年三月場所・回向院で雷電は、四海波との対戦でわざと四海波に両手を差させ、閂(かんぬき)に絞り、土俵外に飛ばして絶命させたという話がある
これは、四海波がほかの力士を侮辱し、土俵外で殺したことによる復讐という背景があった
しかし、この取組が行われた寛政四年三月場所の興行は回向院ではなく、神田明神であった。
また、四海波という力士は安永九年冬の番付には見られるが、寛政四年の番付には見られないなど、辻褄が合わない情報が多いため一つの諸説として知られている
文政の相撲へ(1818年~1830年)
前述で述べたように、回向院が勧進相撲の定場所として興行されるようになったのは天保四年でしたが、文政十年以降の相撲も年二期(春冬)ともほどんど回向院で興行が行われていました
40年越しの横綱誕生、阿武松緑之助
谷風・小野川が一時代を築き、雷電が最強として君臨した時代が終わると、横綱免許を設けられるような力士は谷風・小野川(1780年頃)以降40年近くの間は現れなかった
しかし、文政十一年二月に阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)に横綱の栄誉が授与されました
阿武松緑之助が横綱免許を授与された後、同年七月には稲妻雷五郎が横綱となりました
これに伴って、
- 阿武松は長州侯(ちょうしゅうこう:幕末の長州藩、現在の山口県)
- 稲妻は雲州侯(うんしゅうこう:江戸時代の出雲国、現在の島根県東部)
の抱え力士となりました
大名と相撲の関係:抱えるとは?

これまで説明したように、江戸時代には勧進相撲のブームによって相撲の存在がとても大きくなっていました
こうなると、土俵上で相撲を取る専門力士たちは番付の上位を占めることこそが、己の価値をはかる基準とされるようになっていきました
そして、土俵上で藩の名誉を高く掲げてもらうことを主の目的とし実力のある優れた専門力士を「抱える」ことがありました
優れた専門力士を抱えた藩
- 仙台伊達家(谷風梶之助・秀ノ山雷五郎など)
- 雲州松平家(雷電為右衛門・稲妻雷五郎など)
- 久留米有馬家(小野川喜三郎など)
- その他、長州毛利家・鳥取池田家・薩摩島津家・丸亀京極家など
しかし、この藩の存在は現在の相撲部屋とは異なっていて、藩に抱えられた専門力士たちは藩とは別に相撲部屋に所属し、相撲年寄(親方)から指導を受けていました
抱えるとは?
「抱える」とは、大名が力士に扶持米(ふちまい:今で言う給料)を与え、化粧まわしをたまわるなど力士を優遇することを指します
つまり、大名と専門力士の関係は今で言うスポンサーのような関係性でした
当時の大名の力はとても大きく、運営を飛び越えて好きなことが言える存在でした。このように、当時の相撲界は大名との関係がとても深かったことがわかります
文政から天保、幕末の時代へ
上記で述べたように、阿武松・稲妻の時代で幕を開けた文政の相撲界は天保の時代にまで、この両者の二大力士で相撲界は支えられた
その後、
- 不知火諾右衛門(しらぬい だくえもん)
- 剣山谷右衛門(つるぎざん たにえもん)
- 秀ノ山雷五郎(ひでのやま らいごろう)
の三力士の台頭によって相撲界は新しい時代を迎えることになっていき、その後、幕末の時代へと突入していきます
幕末の相撲
黒船来航と力士の活躍

嘉永六年(1853年)浦賀にペリー率いる黒船が渡来しました。その後の嘉永七年正月に黒船が再び来航
その時には、力士が米艦に食料を供給するために米俵を一俵、あるいは二俵ずつ持ち上げて運び、力士の剛力ぶりをアメリカ人に見せつけました
大関の小柳常吉の剛力ぶり
中でも、大関の小柳常吉は三俵を背負い、二俵を小脇に抱えるなどその剛力ぶりを発揮した。
また、アメリカ水兵の選手三人を相手に、余裕の戦いぶりを見せつけてさらにアメリカ人を驚かせました
そして、この剛力ぶりの由来を問われると、「日本の美食を食い、その美酒を飲むが故なり」と言い放ったといいます
さらに、稽古相撲の様子でも力士に対して喜びと驚愕の眼を向けていたといいます
幕末の力士たち
東方
剣山が引退した後の東方は、小柳常吉・猪王山森右衛門が相次いで大関となり、これを雲竜久吉に伝えました
西方
西方大関は鏡岩浜之助が秀ノ山の後を受け、その引退後は階ヶ嶽竜右衛門・境川浪右衛門、そして
不知火光右衛門がまたこれをつぎました
この前後に、
武隈文右衛門・御用木雲右衛門・荒馬吉五郎・稲川政右衛門・荒熊力之助・常山五良治等が各々東西重要の地位を占めていました
雲竜型と不知火型のはじまり
雲竜型

雲竜型の始まりは雲竜久吉(うんりゅう ひさきち)と言われています
雲竜は、文久元年(1861年)九月に吉田司家より横綱免許を授与されて横綱となりました
その後、後世にまで雲竜型として伝わる華麗な土俵入りと共に江戸の人気を湧かせました
不知火型

不知火型の始まりは不知火光右衛門(しらぬい こうえもん)と言われています
不知火は、文久三年(1863年)十一月に横綱免許が授与され、横綱となりました
不知火は美貌を持ち合わせ、その土俵入りは稀にみる美しさであったため、錦絵などに売り出されて大いに流行し、不知火型の土俵入りと称して、長く語り草とされました
まとめ
これまで解説してきたように、現在の相撲制度は時代とともにかなりの変遷はあったものの、宝暦以後百十年間の江戸時代に完成された勧進相撲の継承であると言えます
江戸相撲の始まり
徳川家康が江戸幕府を開府してから、勧進相撲は大いに発達し、同時に力士団体の存在を作り出しました
勧進相撲は元々、京都で起こり、大阪でも催されたが、徳川時代の文化の中心が江戸に移ったことによって、相撲もまた江戸において大成していきました
相撲の盛況
江戸での相撲は本来の勧進相撲は持ち合わせていない完全な営利興行として広まっていきました。しかし、名前は勧進相撲として興行は行われ、年二期(春冬)に回向院で行われる興行を本場所として行われました
また、力士団体は全国各地に巡業的興行を続けて歩いており、これは花相撲と称されていました
江戸相撲の時代を作り上げた力士たち
この江戸相撲は、その時代ごとにそれぞれ名力士が誕生し、各時代を作り上げてきました
そして、いずれの時代にも東西の力士が互角に対峙する時を、その最繁栄期としています
初期の勧進相撲には、明石志賀之助、仁王仁太輔らの大力士が存在しましたが、力士制度が完成したのは、安永・天明から寛政にかけてのことである
そして、この時代を代表する力士は、谷風梶之助・小野川喜三郎で、その後に雷電為右衛門です。その後、しばらく横綱免許は空席となりましたが、文政に入って阿武松緑之助が40年ぶりに横綱免許を授与され、稲妻雷五郎とともに一時代を築きました
天保以降には、不知火不知火諾右衛門・剣山谷右衛門・秀ノ山雷五郎・雲竜久吉・不知火光右衛門らが活躍したが、その後はパッとせず、陣幕久五郎・鬼面山谷五郎を最後として甚だしい衰退の内に江戸時代の幕を閉じました


コメント