相撲の聖地である土俵。土俵がどのような経緯で誕生し、現在の形へと変化していったのか?
今回は、その歴史と変遷を徹底解説していこうと思います
土俵とは?

相撲の土俵の誕生
土俵という勝敗を明確に決定づける境界線が誕生したのは織田信長の影響だと言われています
信長が生み出した土俵の原型
信長以前の時代の土俵
織田信長は「大の相撲好き」として知られており、安土城下でよく上覧相撲を開催していました。しかし、信長以前の時代の相撲には勝敗を明確に定める境界線はなく周囲の観客を曖昧な勝負の境界線とする「人垣(ひとがき)」で相撲が行われていました。しかし信長はこの曖昧な状況を嫌い、明確な境界線の誕生へと進んでいきました
信長が整備したルール
信長は大勢の観客が公平に、かつ安全に観戦できるよう、地面に円を描いたり、仕切りを設けたりして物理的な境界を明確にするよう指示したとされています。
この境界線が土俵の原型となり、「境界線の外=負け」というルールと同時に確立されていきました。
江戸時代の土俵

現在の土俵が誕生するのに決定的な進化を遂げたのが江戸時代の勧進相撲です
現代の土俵の原型が完成
土俵の形
江戸中期(1680年代〜)に地面に細い縄を円形に置いた土俵の原型が完成しました。しかし、激しい取組の時に縄が崩れてしまうので、米俵に土を詰めて半分を地面に埋める「俵」が誕生しました
サイズ
この頃の土俵の直径は13尺(約3.94m)で、現在の15尺(4.55m)よりも一回り小さい土俵となっていました
二重土俵の誕生
江戸中期〜後期(1700年代後半)に円形の土俵の外側にもう一つの円形の土俵が設けられた二重土俵が完成しました
二重土俵は、二つの円の間にできた幅約25cmの溝に砂を敷くことで、行司や勝負審判が力士の勝敗を正確に見分けられるような役割を持っていました
現代の土俵への移り変わり

土俵が誕生し、形が整備されていく中で昭和の時代に入ると現代の土俵の形に直結するような整備が行われました
土俵の改革
昭和6年4月(1931年)の改革
日本相撲協会公式の情報によると、昭和6年4月(1931年)に俵の直径13尺を15尺(4.55m)にし、二重土俵を一重に改めるという改革が行われました
昭和27年9月(1952年)の改革
昭和初期の大相撲では、土俵の四隅に設けられていた四本の柱の上に屋根が掛かっていました。しかし、昭和27年9月(1952年)に四本の柱が撤廃され、代わりに吊り屋根が設けられました
これは観客から土俵が見やすくするための改革で、柱があった四隅には屋根の四隅から柱の代わりに四色の房が設けられました。この土俵の形は現在まで続いています
現代の大相撲の土俵について

- 土俵の高さ:約57cm(1尺9寸)
- 全体サイズ: 一辺約6.7mの正方形
- 土俵の直径: 4.55m(15尺)
- 使用されている土: きめ細かい粘土質の荒木田土(あらきだつち)
土俵が高くなっているのはなぜ?
土俵が高くなっているのには「力士が受け身を取ることができる時間も作るため」や「土俵下の審判が土俵を見やすくするため」など多くの意見があります
しかし、一番の要因は観客が土俵を見やすくするためであると言われています
外側に出ている土俵の意味は?
土俵はきれいな円形ではなく、四ケ所が外側に飛び出しています。この飛び出している部分の土俵と「徳俵(とくだわら)」と呼びます
名前の由来
追い詰められた力士が俵の幅(約10cm)だけ土俵際に足をとどまらせて「得をすることができる」ということからきています
土俵祭りとは?
土俵祭とは立行司が祭主となり、祝詞を奏上し、供物を捧げて場所中の安全と興行の成功、さらには国家の安泰、五穀豊穣を祈念するものを言います
土俵の中央に穴を開け、塩、昆布、するめ、勝栗、洗米、かやの実などの縁起物が沈められます
まとめ
土俵は織田信長の時代から境界線という仕切り線が完成され、江戸時代に入って形を変えていき、昭和の時代には現代の大相撲の土俵の形へと変化していきました
また、聖域である土俵では国家の安泰や場所中の安全と興行の成功を願うための「土俵祭り」も行われています


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